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k-coの独り言

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2008年 07月 31日

あばら家


私が生まれたのは神戸で、育ったのも神戸。
だから、生粋の神戸っ子・・・と言いたいけど
在日韓国人3世や。
けど、教育はと言えば日本の学校やから、言葉は勿論
風習も歴史も何も知らん。
自国にも言ったことがない。というより、行く機会がなかった。
恥ずかしいと言えば、恥ずかしいことや。
それは、自分でありながら自分を知らんことに等しい。
親父はと言うとこれまた、神戸生まれで2世でありながらよ~勉強してたから
言葉もペラペラやし、歴史も良く知ってた。
そんな親父の子供でありながら、何も教わっていないと言うのはどういうことか?
そのことによって、ずっといじめられてたからどないでもして知らん顔しようと
必死で逆らってたし、親父もそんなに真剣に教えてはくれなかった。
と、今は亡き親父のせいにしとこ。

住んでいたところは、神戸の山手とは聞こえがいいけど
実は戦前にお祖父ちゃん達がこの土地に来て、この国の開拓の為
渡ってきてた。戦時中の色んなことがあってのことやから詳しくはわからんけど。
で、与えられた居住区と言うのがどうしようもない山の中で、そこから自分達で
切り開いていくことから始まった。食べるものもまともになく、朝から夜まで
一生懸命、生きる為に働き続けた。
おかげであばら家とはいえ、雨露をしのげささやかでも生活と言うものを
営んでいくことが出来た。勿論、言葉もわからないから自給自足。
でも、それらが実った頃には誰かがこっそり頂いていく。
それでも文句を言わず、働いて、働いて・・・・
それを見ていた親父も、反抗してたと思う。今になってその妹である叔母から
良く愚痴を聞かされる。「あんたのお父さんは不良やった~」て。
時代は違えど、私もおんなじやったんやな。ただ、私は不良ではなかったけどな ;
そんな家で、私は育ってきた。
電車が通る線路の際やし、家の手前にはその線路の下を通る為のトンネルはあるし、
ホンマに家に帰るのが嫌やったわ・・・・
そこだけが別世界で、隔離状態。むしろ別の人種が住む為の部落化されてた。
家のすぐ裏は崖になってるし、その崖の上には普通に立派な家が建ってるし
落ちてこえへんのが不思議やったくらいや。
その家に住んでる人もよ~平気でおったなぁ。。?

それから数年が経って、お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもいなくなって
私等親子だけになった。
両親、お姉ちゃん、妹2人と、私。(それから数年後に弟2人が生まれることになるんやけど)
どこへ行っても虐められたわ。学校でも、買い物に行っても。
狭い土地でのことやから、そんなことしか話題にならんのはしょうがなかったのよ。
「朝鮮人!にんにく臭い!汚い!」それでも泣いたことは一度もなかった。
だから余計に相手も意地になるんやろうな?終いには物で殴られたり、何かなげられたり。
そんなことをする相手より、親や周りの大人を恨んだわ。
子供の知恵で、私が在日韓国人やてわからんよ、きっと大人の心無い入れ知恵が
そうさせてたんやと思ってたから。親達が「あそこの子は、朝鮮人やから遊んだらあかん!」
て、聞こえてきそうなくらい大人たちの目が、そう思えた。
そう考えたら、結構私も負けず嫌いでませてたんやなぁ・・・
どれほど悔しい思いをしようが、絶対泣かなかった。
そんな心の支えやった、お姉ちゃんもこの世からいなくなって
おまけに母親とも、うまくいかなくなって逃げ場はなかったわ。
楽しいこともあったはずやけど、色んなことがありすぎて
素直に喜んだことが、ホンマにあったかどうかもわからん。

そんな良くも悪くも、複雑でありながら色々あった思い出の家。
阪神大震災のときも、崩れることなく持ちこたえてた。
死んだお祖父ちゃんの血と涙と努力の結晶がみごとに立派に残った。
「たいしたもんやなぁ!」
当時そこには、弟が一人で住んでたんやけど、今では考えられへんくらい不便やったよ。
トイレは昔のまま、母屋から離れたところにあって、月に一回だけバキュームカーが来て
汲み取って行ってた。雨が降ったらそれこそ大変よ!傘差して走る!
それは不便すぎるとかで、母屋からトイレまで屋根を取り付けたりして ^^;
その家も、電車が通ると微妙に揺れるし、雨が降ったらテレビの音も聞こえん。
今時、そんな家がありますか!?
水洗便所かせめて、浄化槽にしてくれても良さそうなもんやけど、そんな僻地では
開発外で、何だかんだ言いながら伸ばしては避けてたんやろうな?
それも差別やんな?
その数年前に、開発事業の話が持ち上がってマンション建設の話もあったけど
いつの間にか立ち消えてしもうた。うまいこといわれて逃げられた気がするわ。
忘れもせんよ、今でも有名な大手ゼネコンのS建設ですわ。
まぁそれは過ぎたことやし、あまりにもウマイ話しすぎて眉唾もんやったから
どちらかと言えば、当てにしてなかったわ。

そしてある日のこと・・・・
大雨や台風が来るたびに心配はしてたんやけど、案の定弟から電話が・・・
「実は、相談があるんやけどなぁ、金貸してくれへん?」
「え?どしたん!あんたがそんなこというの珍しいなぁ!」
その弟は人に貸すことはあっても借りることはなかったから、びっくりして聞いてた。
「家が、えらい雨漏りでなぁ、困ってるねん。で、手持ちでは不安やから・・・」
「わかった!」
応急処置はしたらしいけど、その年の雨がまた土砂降り続きでどうしようもなかった。
そんな嵐が過ぎたある日にまた、連絡があった。
「あのなぁ、このあいだの件やけど解決したわ」
「なんで?どうにかなったん?」
「いや~・・・事態はそれより最悪や。会ってから話す。」

そして
「実はあの場所、家の裏はメッチャ硬い岩盤でびくともせえへんて、何年か前に
地質調査の人が来てお墨付きやったんやけど。」
「ふん、ふん、それで?」
「ところが今度は国交省とか消防庁とか、何や訳わからん役所がいっぱい来て、危険ですから
すぐに立ち退いてください!て、立ち退き要請がでたんや。」
「は?なんのこっちゃですかいな?」
「あの丈夫やった岩盤が、この間の地震で何センチかずれてきてるらしいわ」
「!!!え~~~~~!????」
「引越しせなあかんねん、だからもっと金がかかる・・・」
ということになった。

それからというもの、バタバタで忙しいやらなにやら・・・
て、私は全然タッチしてないけどな。
元々の地主と相談して、何年か住んでると居住権というのが発生するらしくて
その分の保障もしてもらうことが出来て、無事に今では小さいながら
土地付きの一戸建て住宅を買いました。
独身で、一生懸命働きながら毎月ローンを払い続けていますわ。
「こんな目に遭うとは思わなんだゎ・・・35年も借金生活やで!そのうち宝くじでも当てて
誰にも言わんと、この家をうっぱらって失踪するからな!」
と、のたまいてます。


けど・・・
私達5人は、不思議なことに同じ時期に同じ思いを馳せてることがある。
事情があったとは言え、手放してきたあの家のことを。
お盆や正月になると、誰からともなくあの家の話がでる。
「便所行くの難儀して、嫌やったなぁ・・・どないかしたら我慢してたゎ」
「男子はええよ~!私等なんか、ええ年してその辺で・・・て、出来ひんやん!」
「あの台所の、床が抜けてる所も怖かった~」て。
「今、どないなってるやろうか?」
「雑草も生え放題で、狸とかが住んでそうや」
「そういえば、狸の親子もよ~出てきてたなぁ」

トンネルを抜けるとそこは雪国だった・・・
て、あったやん?

そこはホンマにそんな所やねん。
春になったら、トンネルの向こうの畑には菜の花が満開で、
線路際にはここへ来た当時にお祖父ちゃんが植えた桜が満開になって
蝶々がいっぱい飛んでて。
家の周りにもお祖父ちゃんが植えた木はいいっぱいあったよ。
琵琶の木、イチジクの木、山椒の木、畑にもトマト。きゅうり、なすび、かぼちゃ、
さつまいも、じゃがいも、白菜、キャベツ、ねぎ、チシャ菜・・・色々
食べるもんに不自由せんようにしてたんやろうな ^^
湧き水もでてて、井戸に貯めて野菜を洗ったり、冷やしたりして。
美味しかったなぁ~!おひさんの匂いがして。
家の前には、大きなニセアカシアの木があって、蝉が鳴いて・・・
やかましかったけど、風が吹いたら涼しくて蜩も鳴いてた。
そう、自然がいっぱいあったんよ~


貧乏が嫌で、在日韓国人であることが嫌で、学校にも行きたくなくて
不幸なことばっかりしかなくて、死にたいと思ったこともあったし、
希望というものなんか、何ひとつとしてないと思うてたけど、
あったんやね、幸せがそこに・・・・
今では、どうやっても手にはいらへんもんがいっぱい、あったんやね。
それに、5人の妹や弟。


それから、そのあばら家が・・・・
貧乏も今思うたら、ええ思いでやわ。

そのあばら家があったからこそ、私がここにおるんよね。

by lucky-powder | 2008-07-31 14:48 | ノスタルジー | Comments(0)


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